陽だまりのようなお母さんではなかった私

こんにちは。

東京・吉祥寺にて、50代女性に向け「内面と外見がマッチする装いをご提案する自宅サロン」アンドレアを主宰しております、松前恵美子です。


前回の、塾の先生方の言葉に導かれたお話。

反響をいただきとても嬉しいです。

今日はちょっと続編を。


私は決して「陽だまりのようなお母さん」ではありませんでした。

どちらかというと逆だったような気がします。

だからこそ、塾の先生方の言葉に素直に感動できたのだと思うのです。

今日はそんなお話です。

私の子育てのテーマ

それは

「自分のやりたいことを自由に選べるだけの学力をつけてほしい」

ただそれだけでした。

どういうことかというと、

私の進路にレールを敷いた母との関係からの思いだったのでした。

母が敷いたレール

母が私に敷いた「進路」に関するレールは

「自分の母校に入ってほしい」

「自分が進めなかったピアノの道を進んでほしい」

この2つでした。

母はお嬢様学校と言われた小学校から、高校まで通いました。

そしてピアノが大好きで音楽大学に行きたかったのですが、色々な条件が合わず諦め、大多数の同級生と共に女子大に進みました。

「自分の母校に入ってほしい」

結婚して、子供が女の子一人(←わたし)だったので、母はお受験に邁進しました。

でも、小学校受験で私は不合格でした。

私は何も覚えていないのですが「面接のとき仏頂面したから」落ちたそうです(^-^;

それから母はもう少し自宅から近い、姉妹校の編入試験に照準を合わせ、

学校のあとはお友達と遊ぶことは許されず、電車に乗せられ個人塾に通い、お行儀から勉強からとても厳しく指導を受けました。

私は編入試験は合格し、小学校2年から高校まで通いました。

ただ、母は母校への思いが強い人で、姉妹校にしか入れなかった私が不本意だったようです。それはいまだに時々言っています(^-^;

いずれにせよ、私自身は自分の学校が大好きでしたし、通わせてくれたことはとても感謝しています。

「自分が進めなかったピアノの道を進んでほしい」

そしてもうひとつが音楽の道です。

私は3歳になってすぐにピアノを習い始めましたが、先生が怖くて怖くて練習する気もおきなかったことしか覚えていません。

レッスンに行っても怒られてばかりで辞めたくて辞めたくて、何度も母に頼みましたが聞き入れてもらえませんでした。

「ピアノを辞めるなら、他の楽器を習って音楽大学に行きなさい。」としか言ってくれませんでした。

ピアノへの執着が凄かったので、他のお友達のように、英語やバレエやお習字やお花やお茶は、全く習わせてもらえず。

それが、4年生の時にテレビでフルートの番組を見て、当時音楽の授業で縦笛が上手かった私は「これも笛かな?」くらいの気持ちで、音楽の先生に「ピアノの代わりに習うのにどうでしょうか?」とお聞きしたところ、先生は大いに勧めてくださいました。

それがフルートとの出会いです。

ただし、またお習いする先生を母が決めてしまい(私は音楽の先生に決めてほしかったのですが)、結局ピアノがフルートになっただけの日々が始まりました。

それでも、フルートは好きでしたし、先生もほめて下さいましたから嬉しかったのを覚えています。

時は経ち、高校に上がると進路調査が始まりました。

そして、フルートの先生のおっしゃるままに東京芸術大学を目指すことになり、フルートの先生が変わることになり、副科のピアノとソルフェージュのレッスンが加わりました。

ここまで書いてきて、私の意思はどうだったのだろうと、情けない思いです。

つまり、進路を決める段になっても「本当に音大で良い?」と意思確認を自分でした覚えがないのです。

それよりも何よりも、とにかく楽器の練習しかしていなかったので、既に学校の授業についていけなくなっていました。

周りは、国公立大・早慶上智などへの受験を着々と目指す友人が多く、私は赤点スレスレ状態。

それでも、母は楽器さえ続けていれば成績が周りより悪くても問題にしなかったのです。

そうして受験の時期がやってきましたが、私は東京芸大に不合格でした。現役の時は単願だったので自動的に浪人生活に入りました。

1年後、今度は東京音楽大学と東京芸大を受験し、芸大はまた不合格で、私立の東京音楽大学に通うことになりました。

それでも大学時代はとても楽しかったし充実していました!

私はずっと一人で、黙々とフルートを吹いてきたので、室内楽や吹奏楽が楽しくて楽しくて仕方なかったのです。

特にオーケストラの授業が楽しくて大好きで、卒業後はオーケストラ奏者になりたいと両親に話したところ……

 

今度は母に、猛反対されました。

結婚前の娘が家を空けるような職に就くことなど絶対に許さない。

だいたい女は仕事などしなくていい。

と、はっきり言われてしまいました。

昭和60年代に入り男女雇用均等法も施行されていたというのに、我が家はまるで明治大正でした。

その時初めて、いかに私が「なにも考えずに自らの進路を決めてしまっていたか」思い知ったのです。

自分で決めて自分で切り拓く努力をしてこないまま23歳になってしまったので、考えも甘く、社会に堂々と出られる度量もありませんでした。

いえ、もしかしたら度量はあったのかもしれませんが、「敷かれたレールを進むのが当たり前」と言われ続けたので、他の道を選ぶ勇気がありませんでした。

そして母になった私は

息子二人を授かりました。

自分の生きてきた「敷かれたレールを進むのが当たり前」「勉強を蔑ろにしてしまい、気づいた時には学力が伴わなくなっていた」という生き方を反省材料にして、

息子達にレールは敷かない

自分のやりたいことを自由に選べるだけの学力をつけてほしい

もう、その事だけを目指して、子育てに向き合いました。

未熟な母でした

目標が広い意味での「学力」という、茫漠としたものでしたので、

たとえば我が子が何に向いているのか分からないまま、習い事を色々させたり、スポーツをさせたり、母として未熟なまま突っ走ってしまいました。

が、私の場合は、そういう私に「立ち止まって!」と言われているかのような事柄が色々起きました。

それが母とは違う点かもしれません。

その都度立ち止まって、子供のために考え直すことが出来た自分のことは、素直に褒めてあげたいと思います

そうして、長男は中学受験を自分で選択し、塾に通い始め素晴らしい先生方と出会い志望校を決めて合格しました。

中学高校では、私の勧めた部活は選ばず~この時は母のようになるところでした~好きな部活を最後までやり通し、高校生の時には自分のなりたい仕事を見つけ、大学受験にも自ら進んで努力できる子に成長しました。

次男は、4学年違いの兄のことが大好きだったので、兄と同じSAPIXに通い、同じ学校を目指し合格しましたが、個性の違いから全く違う部活を選び、それでも高校生の時には自分の進路を見つけていました。浪人はしましたが学生として元気に成長しています。

必死に子育てしてきた私は、決して「陽だまりのような」母ではありませんでしたが、

その反省があるからこそ途中途中でめぐり会った先生方の言葉が、心に響いたのだと思います。

子育ての過程で、少しは私も親として成長できたのかもしれません。

チャッピー

そうそう!

愛犬チャッピーの存在も大きかったです。

家族に笑顔を沢山くれた可愛い子でした。

私が息子達を叱りつけると、私には「う”~」と文句を言いつつ、

必ず彼らの膝にのったり足にくっついたりして、温もりで癒してくれていました。

その姿を見ていると、私も頭を切り替え、叱った空気を引きずらずに済んだものです。

🐶 🐶

受験勉強中もこんな風に可愛らしく膝で邪魔して見守っていました。

そのチャッピーは、息子達がそれぞれ家を巣立った翌年に、役目を終えたかのように息を引きとりました。

まとめ

私は、結構未熟で怖い母でした。

それでも、息子達にレールを敷いて歩ませる親になるのだけは避けたかった。

そして、長男が小学校6年生の時に「温かい食事・温かいお風呂・清潔な寝床」のお話を聞いた時、

母親としての覚悟も決まりましたし、

思い返せば自分の母も、その3つだけは用意していてくれたことを思い出し、心の中にあった澱が少し消えたように感じられました。

そして、次男の浪人時代「陽だまりのようなお母さんに」との言葉をいただき、

私の在り方が定まったと思います。

私は今、誰の敷いたレールでもなく自分で選んだ

「50代の女性に向けて、装いやメイクをトータルでアドバイスする」という道を歩いています。

「陽だまりのような」雰囲気を忘れず、お客様と接していきたいと思っております。

なお、今日の記事は投稿するのを少し迷いました。

母のことを書くのは躊躇われましたが、それでも私は母のことを恨んでいるとか嫌いとかではないのです。

母から学んだことは、親がすべきは、子供にレールを敷くのではなく環境を用意する。ということです。

私は母が(両親が)与えてくれた環境には今現在も感謝していますので、我が子にも心を尽くして「環境」を作ってきたつもりです。

またそのことについては、別の記事で書ければと思っています。

 

お読みいただきありがとうございました。
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