こんにちは。 東京・吉祥寺にて、50代女性に向け「自分を知り、自分を慈しむ装いをご提案する自宅サロン」アンドレアを主宰しております、松前恵美子です。
「俺の家の話」をもじってみました!
冗談はさておき。
今日は、私の理想であり、心から尊敬する母方祖母の話をさせてください。
お読みいただけましたら幸いです。
なお、この記事は、私の忘備録も兼ねていて、直接サロンとは関係ないことをご容赦ください。
本当の生い立ち
祖母は、10人兄弟の6番目として生まれ、女学校を卒業と同時に、18歳でお見合い結婚をしました。
下図は簡単に記した祖母の生家の家系図です。
大正~昭和の当時は大家族が多かったですし、10人兄弟も多いとは思えど不審に思ったことはありませんでした。
曽祖父は95歳で亡くなるまで健在でしたし、曾祖母も享年82歳と長生きで、親戚も大人数の割には仲が良くて集まる機会も多く、仲の良い一族だと思っていたので尚更でした。
私が高校生の時に曾祖母が亡くなり、当時目白の高田老松町(現、目白台)にあった家を取り壊すことになりました。
老松町の家には大きな蔵があり、そこに入っている多種雑多な品々を皆で引っ張り出して、
それぞれ縁のある持ち主が持ち帰る事になり、私も祖母と母に連れられて行ったのでした。
その時、見知らぬ女性の御位牌や遺品等が出てきて、主に祖母や祖母の姉達が分配しているのが不思議でした。
実はそれが、祖母の本当の生い立ちを知るきっかけとなったのです。
祖母は、自分が生まれてすぐに、母親の産後の肥立ちが悪く床に臥せってしまったので、
小学校に上がるまで、父方の祖父母の家に一人だけ預けられていました。
父方の実家は、福島の飯坂温泉というところにあり、とても厳しい祖父母だったけど、親戚やいとこ達も多く、
時々お父様も来て下さったし、そんな時にはお父様を独り占めできたのでそれなりに楽しかった、と祖母はよく話してくれました。
そして、小学校に上がる時に東京に戻され、元気になった母が弟を4人産んで、賑やかに暮らしたのだ、と私は聞いていたのです。
ところが、見知らぬ女性の御位牌や遺品等を姉妹だけで分けている姿は、
仲の良い兄弟にしては私には違和感を伴う景色でした。
そこで母と祖母に尋ねたのです。
「この御位牌はどなたの?このお宝のような遺品は何なの?」と。
その時初めて、祖母の本当の生い立ちについて教えてもらいました。

実は本当のお母様は私(祖母)を産んでから、回復することなく私が3歳の時に亡くなってしまったの。
そして、わりとすぐに、お父様の秘書をしていた方が後妻に入られたの。
それが、今回亡くなられたひいおばあ様。
ひいおばあ様とは義理の母娘の仲だったけど、本当のお母様を知らない自分にとても優しかったし、弟たちとも仲が良かった。
でも、一番上のお姉さまとは、たった5歳しか違わなかったの。ママ(私の母)のいとこ達との年齢がおかしかったのはそのせいなのよ。
※大叔父側の母のいとこ達は、私と同年代もしくは年下が多かったのです。子供心に不思議でした。
下図が本来の家系図です。
義理とわかった曾祖母でしたが、祖母に優しかったのと同様に、私にもとても優しいひいおばあ様でした。
それでも、では本当のひいおばあ様はどういう方だったのか、なぜお座敷ではなくお蔵の中から色々出てきたのか、
等々、とても知りたくなった私は重ねて祖母に尋ねると、これまたビックリするような事実を教えてくれました。
それはこの記事の最後にご紹介します。
結婚してから
祖母は18歳で、5人兄弟の長男であった祖父とお見合い結婚しました。
戦前の事なので、両親だけでなく未婚の2人の弟と2人の妹との同居でした。
舅(私の曽祖父)は早くに他界しましたが、姑(私の曽祖母)は元気に長生きしたので、約40年姑に仕えたことになります。
曾祖母は私には優しいひいおばあちゃまでしたが、
祖父に言わせれば「猛母」だったそうで、ましてや嫁にしてみたら猛烈な姑だったと思います(笑)
それでも、孫である私に悪口や嫌な顔を見せたことはありませんでした。
素晴らしい祖母だったと思いますし、大変だったと思いますが、
親戚の誰一人として祖母の事を悪く言う人はいなかったことからも、祖母の人としての在り方が偲ばれます。
祖父も「由緒正しい名家のお嬢さんだったのに、僕にも優しかったし、親兄弟だけでなく甥姪達にもちゃんと接してくれて、自分には出来過ぎのお嫁さんだった。」と、孫の私に惚気るほど、愛していたようです。
実際に祖父は、祖母に先立たれた日から約半年後に後を追うように亡くなりました。
この写真は、祖父の米寿のお祝いの時のスナップです。祖母は81歳でした。
いつもこの表情をしている、上品で美しい女性でした。
大切なことは祖母が教えてくれた
私はよく祖父母の家にお泊りに行っていました。
23歳で私を産んだ母にしてみたら、まだまだ遊びたい盛りだったのでしょう。
理由は覚えていないのですが、本当によく泊まりに行きましたし、
私が10歳でフルートを習い始めた頃からは、毎日曜のレッスンが井の頭公園近くであったので、
ほぼ毎回、レッスンの後には、お昼ご飯を食べに祖父母の家を訪ねました。
そしてどんな時でも、お手製のご飯をご馳走してくれたり、
お台所に私を呼んでくれて、今思い出しても本当に美しい所作でのお料理を教えてくれました。
他にも、洗濯物を畳む姿も美しくて、よく見惚れたものです。
そんな時教えてくれたのは、下記のような言葉でした。
「特に日々の家事はそうすると良いの。」
「イライラしている時でも、平らな気持ちで目の前のことに向き合うと、些末で不要なものは自分から消えていくのよ。」
子供の頃は、今ひとつ何を教えてくれたのか理解できていなかったのですが、
この年になると、一言一句心に沁みるように思い出されます。
正に私の座右の銘なのです。
生きる上で、大切なことは祖母に学んだと言えます。
この写真は、私がまだ1歳でしょうか、祖母は45歳頃だと思います。
孫(私)を見つめる眼差しと佇まいが、まさに祖母そのもので、今でも見惚れてしまいます。
誰が撮ったのか聞いておきたかったのですが、撮影した人も同じ気持ちだったと推測されます。
そして、お泊りした時には、毎朝祖母がお化粧するのを鏡台に並んで見ているのが好きでもありました。
こんなに美しい祖母でしたが、化粧などは本当にシンプルでした。
洗顔は牛乳石鹼。基礎化粧は当時資生堂から出ていた、ドルックスシリーズの化粧水、乳液、クリームだけのシンプルなお手入れでした。
- 牛乳石鹸赤箱
- オードルックス
- レーデボーテ
- ナイトクリーム
お手入れが済んだ後は、おしろいをはたいて眉を描き、頬紅と口紅を差して終わり。
髪の毛は、染めることなく真っ白でした。お手入れは椿油のみ。
梳いて逆毛を立てた髪をふんわりまとめて、ピンでとめて終わりでした。
私が50歳を過ぎてから、どんどんシンプルなお肌のお手入れに移行したのは、祖母の影響が強いのです。
日々の暮らしを整え、お肌も髪も余計なものは足さずに、
心映えを美しく保ち年齢を重ねることが
人としての在り方を支えてくれる。
祖母から学んだ、大切な生き方の一つです。
ちなみに私の現在のお手入れは、こんな感じです。
- 牛乳石鹸赤箱
- 無印化粧水
- MiMCクリーム
- 無印オイル
祖母の本当のルーツ
実は、祖母を産んだ本当のひいおばあ様は、渋沢栄一の孫にあたる人です。
高校生で初めてその事実を知った私にとっては、まさに青天の霹靂でした。
だからといってあまりにも遠い存在の方ですし、そのことが深く心に残ることは正直なかったのです。
でも時が経ち、自分自身も母親になり、
また、親戚の中で或る事があったのをキッカケに、曾祖母、ひいては自分のルーツに思いを馳せるようになりました。
ただ、渋沢栄一の孫娘が嫁入りしていたことを、大叔父達が公にしていなかったことで、お察しいただければと思います。
- まだ幼い子供たちを残し、たった32歳で逝く妻を、夫である曽祖父や実家の人々はどんな風に感じていたのだろう。
- 自分の死後、自分がお腹を痛めた子供に、本当の母である自分の存在を伝えてもらえないというのは、どれだけ無念だっただろう。
- 私がその立場だったら、人間が出来ていなさ過ぎるので、夫や後妻さんに化けて出たかも💦

大河ドラマがはじまる!


※画像はHPからお借りいたしました。
毎週楽しみに拝見したいと思います。
また、これから開館する大河ドラマ館などにも、コロナが落ち着いたら訪ねてみたいと思います。
おわりに
今日は、私の理想であり、心から尊敬する母方祖母の話を書かせて頂きました。
波乱万丈ではないけれど、大正時代に産まれ、戦前戦後を真っすぐに生き抜いた
人としても美しい祖母に思いを馳せながら、一年間大河ドラマを楽しみ、
いずれ新1万円札が発行されたあかつきには、
ありがたく、ひいひいひいお爺様の顔を、
↓ ↓
束にして使えるように願いつつ?!
今日の記事を終わりたいと思います。
なお、アイキャッチ画像に使った写真の花は、
祖母が生前大好きで欠かさなかったフリージアの花です。
特に黄色いフリージアが好きでした。
上品でたおやかな人でしたが、秘めた明るさと陽気さがあったのかもしれません。
ちなみに、黄色いフリージアの花言葉は「無邪気」です。
なんとなくしっくりくるような気も致します。
お読みいただきありがとうございました。